木目込み人形の歴史
元祖木目込み人形の地「上賀茂神社」
いまからおよそ280年前、京都の上賀茂神社に仕えていた高橋忠重が作った人形が「木目込み人形」の始まりとされています。
上賀茂神社から木目込み人形の正統伝承者として認定を受けているのは真多呂だけです。
ここでは、「木目込み人形」の歴史をご紹介いたします。
元祖・木目込み人形 - 「加茂人形」って?
いまからおよそ280年前の江戸元文年間に、京都の上賀茂神社に仕えていた高橋忠重という人が作った小ぶりの人形が「木目込み人形」の始まりとされています。
その人形は鴨川のほとりの柳の木を素材に木彫をほどこし、そこに溝を掘り神官の衣裳の端切れをきめこんだものでした。
上の人形は木目込み人形の創始者・高橋忠重が1736~41年頃に作った賀茂人形です。
縁起の良い七福神で、真ん中にいるのは弁財天です。
文化の頃、高橋忠重の孫の大八郎が作った賀茂人形は、大八人形とも呼ばれていました。
こちらの人形も大八郎作の大八人形「すずめ踊り」です。
作品は10センチ以下のものがほとんどで、取題は能・狂言や七福神、公家良俗、童もの等、種類が多く見られます。
木目込み人形の移り変わり
木目込み人形の「木目込み」という名の由来には、二通りの説があります。
一つは、木の目(節)に衣裳を着せていくところからによるもの。
もう一つは、衣裳を人形自体に「きめこむ」ところからの名だという説です。そのため、一部では「極め込み」という字を当てているところもあります。
いずれにしても、ボディに直接、布を張り付けていくことに変わりはありませんが、この木目込み人形が誕生した当時は、木彫りの人形に端切れの布を木目込んだだけの素朴なものだったということです。
木目込み人形のルーツ、賀茂人形の誕生
木目込み人形の創始者・高橋忠重
木目込み人形は、いまからおよそ280年前の江戸元文年間に、京都の上賀茂神社に仕えていた高橋忠重という人が作った小ぶりの人形が「木目込み人形」の始まりとされています。
高橋忠重は、当時、上賀茂神社に仕える堀川家で宮大工をしていました。
この堀川家は神官で、代々、祭り事に使用される諸道具を上賀茂神社に納める職にありました。
その道具の一つである「柳営(神事に用いられる小物を入れる箱)」を作った時の端材を、暇なおりに忠重が削って人形にしていたようです。
その人形は鴨川のほとりの柳の木を素材に木彫をほどこし、そこに溝を掘り神官の衣裳の端切れをきめこんだものでした。木彫りのあとに磨きをかけることもなく、青みがかった柳の木肌がそのまま生かされた、とても味わい深い人形です。
息子から孫へと受け継がれる木目込み人形
この人形の作法は息子から孫へと受け継がれていきました。通説では、三代目の大八郎はたいそうな名工として評判高く、「大八郎人形」と呼ばれる数多くの人形を残しています。
しかし、ここではいろいろな説が入り乱れており、特に「大八郎」というのは高橋家の異名であり、実は大八郎という人物は三代目ではなく、創始者の高橋忠重本人のことではなかったかという見方もあります。
いずれにしても、現在残されている賀茂人形はかなりの数にのぼりますので、一代一人だけの作品とは思われず、何代か続けられたものであることは確かでしょう。
素朴な賀茂人形の特徴
もてはやされる珍しい木目込み手法と、豊かな趣
賀茂人形が作られる以前では、人形と言えば、縫い合わせた着物を着せる、いわゆる「着せ付け人形」か、木彫りに直接彩色を施したものばかりでしたので、この木彫りに筋を入れて衣裳を木目込むという新しい手法による人形は、たいへん珍しがられたようです。
初めのうちは「賀茂人形」あるいは「柳人形」と呼ばれましたが、名人の大八郎が有名になってからは、「大八郎人形」とか「大八人形」といって京都の高級なみやげ物としてもてはやされました。
この人形の特徴的なところは、柳の木の青みがかった地肌をそのまま生かした顔や手足でしょう。作りたてのうちは木の新鮮さが香りを漂わせていて、時間がたつにつれて木が枯れていくと、また別の風格をましていくといった味わいが、何ともいえない趣を秘めていたのです。
また、鼻筋が高く、あがり口で、下がり目といった顔立ち、しかも満面に笑みをたたえているような穏やかな表情も心和ませるものがありました。まして、一体一体が手作りであったために、それそれに表情が微妙に違って、それがまた表情豊かな印象を与えるのです。
人形の寸法は小さなものが多く、だいたい5、6cmから10cmくらいのものでしたから、さらに小さな顔に異なった表情を表現する製作技術の優秀さ、細かい気配りには驚かされます。
当時の姿をとどめる、木ならではの保存の良さ
現在、博物館などに残されている当時の人形は、どれもかなりよい状態のまま保存されています。これもまた、賀茂人形の特徴です。これは、人形本体が木でできていますから、形くずれがないということでしょう。
これが、わらなどをボディに使って縫い合わせた衣裳を着せた衣裳人形ですと、年月がたつうちに形が崩れたり、箱に入れられたままだったりして、当時の姿を完全にとどめているものを見つけるのが難しいようです。
こうした特徴が人々の心をとらえ、京都のおみやげとして持ち帰られたり、贈り物として送られたりして、全国各地に広められていきました。
明治時代の画期的な木目込み人形の変化
木目込み人形の原型づくり
明治の初め頃までは、誕生当時のままの技法で、木目込み人形は作られてきました。それは、柳の木を一体ずつ彫刻して仕上げるために、時間と手間がたいへんかかり、制作個数が極端に限られたものでした。
その頃、京都で賀茂人形作りの修行を積んだ人形師、吉野栄吉は「なんとかしてこの人形を一般庶民に普及させたい」という一念でいろいろと研究を重ね、じつに画期的な手法を考案しました。
それは、従来どおりに木を彫って作った人形を原型にして、松やにを利用した鋳型に、木(主に桐の木)の粉末と生麩糊をまぜ合わせた桐塑を詰め込み、原型とまったく同じ塑像を作り出すというものでした。 この塑像は木のように彫ったり削ったりでき、型崩れしない、まさに理想的なものだったのです。
より美しく…木目込みの技術の高まり
彫刻から塑像へ…。この画期的な人形の原型ができたことで、木目込み人形は大きく様変わりしていきます。いままで木を彫刻していた手間が省かれた分だけ、木目込みの技術に比重がかかるようになったのです。当然のことのように、人形の衣裳はより美しくなっていきました。
この栄吉の技術は、息子である喜代治へと受け継がれていきました。
平安の美を求めた、真多呂の新たな木目込み人形
こうして数多くの人形制作ができるようになった木目込み人形は、さらに発展していきます。
二代目名人、吉野喜代治の手法を伝授し、現代の木目込み人形を確立したのが、初代金林真多呂です。
彼は喜代治のほかに、同時代の名人春山からも伝統技法を受け継ぎ、二人の師の教えに自分自身の創意を加えて、「真多呂人形」を完成させました。
真多呂人形は、これまでの浮世絵、歌舞伎物、あるいは童物のほかに、平安朝の美を題材にした平安絵巻の雅やかな世界のものまでも表現しています。また、人形の大きさもやや大きめにして、いままでの木目込み人形のイメージを一新して、現在の木目込み人形の世界を築きました。
この古い時代をテーマにした人形が新鮮に映るのは、正確な時代考証にもとづいた美しさの追求、妥協を許さない真剣な人形作りが、人形に息吹を与えたからではないでしょうか。
現在、木目込み人形の普及は著しく、雛人形にいたっては衣裳人形と半数を分けるほどまでになりました。まさに、賀茂川のほとりで生まれた柳の人形は、280年の歴史を経て、全国の日本人から愛されるごく身近な人形へと移り変わってきたのです。
資料
初めての木目込み人形~雅やかな人形作りの手順を写真で解説(成美堂出版)
著者:二世 金林真多呂(真多呂人形学院)